2013年03月18日
今朝、くろちゃんが息を引きとりました。
金曜日の夜には「もう1匹の猫のおやつまでとってしまうくらい、食欲があるの」と話していたのですが。
土曜日から食欲が落ち始め、今朝早く、子供たちの部屋に鳴きながら入ってきて、子供たちに撫でられながら息を引きとった、とのことでした。
がんばったね、くろちゃん。えらかったね。
みんながいる時にみんなにきちんとお別れさせてくれて、立派な猫だね。
くろちゃんは短い一生だったけど、優しい人に助けられ、こんなに愛してくれる家族と出会えて、本当に幸せな猫だったと思います。
家族はきっと今、悲しく寂しい気持ちでいっぱいなのに、どこかでまだ現実だとは思えない気持ちもあるような、頭がふわふわした感じなんじゃないかと思います。
そして、きっととっても疲れてる。
飼い主のママ友は「今日は仕事がとにかく忙しいのだけれど、忙しくて逆によかった」ってメールに書いていました。
がんばったね。飼い主の鑑だよ。
1ヶ月半前に車に轢かれて死んでしまったたろに関しては、いなくなってしまったことの寂しさをますます感じるようになってはいるのですが、後悔という感覚はないのです。すがすがしくもあったり。それはたろが自由に充分に人生(?)を楽しんだという思いがあるから。悲しいのはたろと会えない飼い主側の気持ちであって、たろはきっと楽しかったなー、って思ってるはず。苦しむ間もなく逝ってしまったと思いますし。だからいいんです。
でも、一昨年に悪性リンパ腫で死んでしまった犬の大食や随分前に同じ病気で死んでしまったカンタに関しては、ずっとしこりが残っていて、後悔ばかり。カンタなんてもう13年も経っているのに。
あんな治療を受けさせて、本人はさぞや辛かったんじゃないか、とか、あのとき、あんな選択をしなければよかったんじゃないか、とか。辛い姿、苦しむ様子を沢山みてしまったし、それを選んだのは本人ではなく私だったから。
今でもごめんね、ばかり感じています。きっと一生癒えることはないと思いますが、それも命を預かった飼い主の責任だから仕方がない。ずっと引きずっていこうと思っています。
それでも大食もカンタもたろも幸せだったと思ってもいます。
だって私も幸せだったもの、とっても。