スタッフの日々

変?
2013年04月11日
何十年ぶりかでネットで再会した古い友人に、何かの話の流れで「夢はボランティアをして生きることかな」と軽く書いたところ、
「人を助けたいんなら、自分がボランティアするよりも、自分は働いて稼いで、その稼いだ金を困ってる人のために使う方が、助けられる規模も大きいんじゃないのか?といつも思うんだけど。何か間違っている?変かな? 」と(本当はもっと長いのですが)返事がありました。
私はこう返しました。
変じゃない、正しいと思う。
私が会ったクライアントの5,60代の経営者女性2人のうち、ひとりは「将来、高齢者のために無料で髪を洗ってあげられる移動車を作りたいの。だから、今はそのために頑張るのよ」といい、もうひとりは「沢山稼いで沢山寄付していきたいと思う」というの。
どちらも素晴らしいこと。
移動車の人は夫の仕事の都合で長年フランスに住んでいて、そこでみつけた商品を帰国してから輸入販売しているの。恐らく一般的な生活をしてきた人で、年齢のこともあるから、自分でできることの中から最大限の夢を目標として設定してる。動物にも優しく、保護猫たちも何匹かいた。
もうひとりの人は地位も名誉もお金もある家庭の娘でアメリカ人と結婚し、海外生活も長く、やっぱりそこでみつけた商品を帰国してオリジナルとして販売してる。子供の頃から裕福な暮らしをしていて、よくも悪くも「お嬢ちゃま気質」のまま大人になった人。「海外(アメリカ)のセレブ、成功者は寄付をすることも責任のひとつのようなところがあるし、キリスト教の意識が根付いているから、分け与える感覚は普通のこと。だから私も沢山稼いで沢山寄付をしていきたい」と、日本でも寄付が名目のパーティに出席したり、団体に名を連ねてお金を出していたりする。
立場、地位として寄付は当たり前のこと、それが上流な人間なのよ、って感じ。
どちらも最終的に誰かの役に立つのだから、いいことだと思う。
そして、どちらもいないと成り立たない。
ただ、私の感覚としては前者の人に近いかな。
きっと、その人も普段も色々なところで寄付をしているだろうし、夢を叶えるまで何もしていないわけではないと思う。
保護猫たちを飼っているということは多かれ少なかれ、そういった不幸な生き物たちのために何かしらの活動はしているはずだろうし。
健康な体で生まれてきたのだから、目の前で困っている者や手を貸してほしい人がいれば、どうぞ使ってください、って思うの。
そして他者の辛い状況を見て、「私がお金を出すから誰か助けてあげてよ」とは思えない。自分にできることって?って考える。
もちろんそのひとつとしてお金はとっても必要で、働く理由のひとつでもあるのだけれど。
私の大好きな言葉は「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」
頭や能力、財力を使って助けることも、そばにいて手を差し伸べることも、どちらも正しい。そう思います。
長い!
でも「変じゃないわよ」とひとことで終わらせてしまうのはとても残念な気がして。
たいして知らない人であれば、「そうね、そのほうが効率的かもしれないわね」なんて笑って済ませてしまうかもしれないけれど、こういう行為や活動に関しては効率的か否かとか、どちらがエライかエラくないかとか、そういうことだけで成り立たせてしまうのは、やっぱりちょっと違う気がして、そして「友人」がそういいきってしまうのはなんだか悲しいなって思ったのです。
変かしら、私。。。
今日のお弁当。
鶏肉とさつまいもの炊き込みご飯。にんにくや胡椒が入って、ボリュームのある味。
小葱入り卵焼き。
ハーブチキンとミニアスパラ、プチトマトのサラダ。
キリクリームチーズ。新発売のバジル&トマト。
清見オレンジ。