スタッフの日々

利己的、利他的
2018年04月18日
「利他的」という言葉があまり好きではなくて。
利己的な人は苦手ですが、じゃあ、利他的?といわれると、うーん、となってしまうのです。
私の中では「利己的」と「利他的」は反対語ではないような感じがするのです。
利他的って「自分を犠牲にしてでも他者の利益を図ること」ですよね。
この犠牲という言葉がなんだかしっくりこなくって。
犠牲って我慢するってことですよね。我慢するって「善」ではない気がするのです。
誰かの為に我慢するのではなく、自分の行動や意思が誰かの為になるならそれって幸せじゃないの!という前向きな気持ちでないと無理していることになると思うからです。
無理はどこかにしわ寄せがきます。それって絶対に良くない。
じゃあ、誰かの為に自分の行動を制限するなんてできないわ、という人は「利己的です!」でいいと思うのです。
利己的というのは、「自分の利益だけを追求すること」なので、本来の意味であればそれで間違っていないと思います。
が、一般的に使われる「利己的」という言葉には自分の利益の為ならば人に害があっても構わないというニュアンスがあります。
「利己的です!」と言い切ってしまうとそこを勘違いされることもあるかも、ですね。
「あなたはいつも他者のことを考えていて助けているよね。優しいよね」といってくれる友達がいます。娘からは「人の為に尽力しちゃうけれど、それって偽善じゃないの?偽善から生まれているんじゃないの?」といわれたりします。
そういわれて考え込んだこともありました。優しいといわれて嬉しいけれど、でもそれほどたいしたことをしているわけではないし、偽善という感覚は全くない。
よくよく考えて気づいたことが、この「利己的」「利他的」に繋がるのですが。
そうなのです。
私は自分を犠牲にしてはいないのです!
困っていたり手を貸してほしい他者を目の前にしたら、自分の時間や手をちょっと使うくらいなんでもないですし、そうすることで自分の気持ちが落ち着くのです。逆にもししなかったら心の中でモヤモヤし続けることになると思うのです。
自分の為でもあるのです。
できないことはできないですし。
時間的、状況的、立場的に「できるかなあ、ちょっと大変かなあ」と思うことでも、その「ちょっと」を他者の為に努力すればいいだけなのです。
その「ちょっと」をするかしないかが分かれ目なだけ、な気がします。
時間がない、余裕がない、って口癖のようにいう人っていますよね。
私はなるべくその言葉を口にしたくなくて。なんだか自分に負けている気がするし、言い訳っぽく聞こえるから。
そうなのです。負けず嫌いの性格もここに繋がって行くのです。
「ちょっと」をできなくてどうする自分!って思っちゃうのです。
面倒くさいですね・・・精神筋トレかい!って思います 笑
今日の写真。娘のお弁当です。
舞茸の炊き込みご飯。人参と油揚げも入れて。
鶏肉のマヨポン炒め。シソと九条ネギも。
ほうれんそうのおひたし。
ベーコンとチーズ入り玉子焼き。
プチトマト。
ロイズのチョコレート。