スタッフの日々

今日のニュース
2013年02月15日
小学5年生の男の子が電車に飛び込み、自殺したというニュース。
遺書もあったみたい。
そこには、この子の学校が別の学校と統廃合になることが決まったらしく、それに反対しての行為のように書かれていたらしい。
もう本当に嫌。
メディアで報道する際には「命を絶つことによって、命を絶つ人以上に家族は苦しみ、悲しむ」こともきちんと伝えてほしい。特に子供の自殺に関しては。
今の子供って、自殺をある種「かっこいいこと」「正義の証」くらいにとらえてしまっているんじゃないかと思う。
だからセンセーショナルに伝えるんじゃなくて、その後の家族や周りの苦しみ、悲しみ、与えた代償なんかをもっともっと知らせないと。
最近の子供は核家族化で身近な死に触れていないからか、テレビやゲーム、本などで死があまりにも簡単に、ときにはゲームのように繰り広げられているのを目にしすぎるからか、「死」に対してどこか軽さがあるようにみえる。
充分大人になってからならば、その中で本当にいいたいことなんかも酌み取ることができるけれど、経験の浅い子供は見た通りの解釈しかできない(子が多い)のに氾濫しすぎてる。
本当の死は知らないのに、作りものから受ける「死」に慣れ過ぎているのね。これってとっても怖い。
子供には「死」は自分とかけ離れた恐ろしいものと思ってほしい。
もちろん、私だって小学生のときに何度も死にたいって思ったけれど、実際に手首にカミソリ(それも母の化粧台にあった安全カミソリね)を強く当てて、皮にちょっと筋がつくだけでもドキドキして怖かった。そしてドキドキした瞬間、もし死んだら、家族はさぞや悲しみ、様々な思いを感じてそれぞれが後悔するだろうな、って思って、「ダメだ、頑張らないと」って。
命を与えられて生かしてもらっている分際で、その命を自分で絶つ資格なんてない、とも思っていたし。
「死にたい」と思い込んでいるときはそんなことが頭に浮かぶわけはないから、カミソリを当ててみようと思うのだけど。
きちんと躊躇できるのは死に対する恐怖や罪悪感がたっぷりあるからで、それが最近の子供に足りないところなんだろう。
やっぱり作りものの「死」の場面に慣れ過ぎているんだろうな。
今日のお弁当。
2色ご飯。鶏そぼろと炒り卵。
さわらの西京焼き。
春菊の胡麻ドレッシング和え。
茄子の甘酢炒め。
プチトマト(アイコ)。
りんご(さんふじ)。